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横浜地方裁判所 昭和33年(わ)545号 判決 1958年12月26日

被告人 西岡実

主文

被告人は無罪

理由

本件公訴事実の要旨は、被告人は昭和三十三年三月二十六日午後七時頃鎌倉市材木座七百三十三番地鎌倉警察署材木座巡査派出所において、同派出所勤務神奈川県巡査佐々木甲子(当三十四年)に対し所携の子供用野球バツトで突然殴りかかり、同巡査の頭部を二、三回殴打しその反抗を抑圧したうえ同巡査の拳銃を強取しようとしたが、同巡査に極力抵抗された為その目的を遂げることが出来ずその際同巡査に対し加療約一週間を要する頭頂部打撲傷及び右肘関節部捻挫の傷害を与えたものであるというのであるが、被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、佐々木甲子の司法警察員及び検察官に対する各供述調書、井上国蔵の司法警察員に対する供述調書、司法警察員作成の実状見分調書、医師柵瀬広太郎作成の診断書及び領置にかかる野球用バツト一本(昭和三三年地領第二七九号の一)の存在によると、被告人は名古屋市において警察官をしていた実父西岡正美の次男として生れ両親の許に育ち昭和二十五年旧制第八高等学校を卒業し一時小学校教員をしていたが更に名古屋大学工学部電気科に学び、昭和二十七年同大学を中途退学をした後、名古屋市内の桜花女子学園、菊井中学校、梅村学園、中京商業高等学校に数学或いは理科担当の教諭として順次勤務していたものであるが、昭和三十三年三月二十日前記梅村学園を退職し、同月二十三日東京方面に就職口を求めて上京し更に仙台にまで赴いて職を求めたけれども結局その希望は達せられなかつたため同月二十六日再び東京に戻つたがその頃は既に所持金も残り少なくなつていたのでかねて思いついていたように警察官を襲つてその携帯する拳銃を奪いそれを用いて銀行強盗を決行しようと考え、拳銃奪取に用いるため小供用野球バツトを買い求めたうえ、これを着用のレインコートの内側にかくし持ち、同日午後七時頃鎌倉市材木座七百三十三番地鎌倉警察署材木座巡査派出所に至り、同所において折柄休憩時間中電話受簿の整理をしていた同派出所勤務神奈川県巡査佐々木甲子(当三十四年)に対し「今晩は、一寸お尋ねすることがあります」と申し向け、これに応じて同巡査が椅子に腰かけたまゝ被告人に対して向き直るや、突然語気強く「私は前に鎌倉警察にお世話になつた者だが、今日はその御礼に来た」と言い放つと同時に所携の前記野球バツトを振つて同巡査の頭目がけて殴りかかり、続いて組みついて来た同巡査の頭部等を二、三回殴打し、その反抗を抑圧して同巡査の所持する拳銃を強取しようとしたが、同巡査に極力抵抗されるともに同巡査及び騒ぎを聞きつけて応援に駈けつけた近隣の人々によりその場で逮捕されるに至つたためその目的を遂げなかつたが、その際右暴行により同巡査に対し加療一週間を要する頭頂部打撲傷及び右肘関節部捻挫の傷害を与えた事実が認められる。

しかしながら証人西岡正美の当公廷における供述、第一回公判調書中被告人の供述記載、被告人作成の上申書、司法巡査小玉勝作成の捜査報告書、堀内久麿の司法巡査に対する供述調書、医師土井正徳及び医学博士竹山恒寿作成の各精神鑑定書及び北林病院院長石川誠司作成の証明書並びに回答書を綜合すると被告人は元来分裂的傾向の気質を有していたが、昭和二十七年五月頃大学三年生のとき退学して教員になろうとして名古屋の実家をとび出し鎌倉市内に下宿して同年夏には鎌倉市役所にアルバイトとして勤め海岸監視員をしたりしていたが、この当時下宿先で夜間大声を発する等の奇行があり、同年秋名古屋へ帰つた際脅迫観念にとらわれていて警察官の保護の下に自宅へ送り届けられたこともあつたが、その後昭和二十八年四月名古屋市内の桜花女子学園の教諭となつた後翌昭和二十九年三月特別の理由もないのに同校教頭及び女子事務員に相次いで乱暴したため退職させられ、同年九月には同市内菊井中学校の教員となつたが、同年十一月五日より同市内北林病院において精神分裂症の診断を受け、通院して電撃療法、鎮静剤等による治療を受けていたが、昭和三十年一月再び鎌倉に出て前に友人から紹介されたことのある佐藤方に早朝無一文で自動車を乗りつけて、自動車賃を借り受けたり、夜間棒を持つて山中を徘徊したりする等の奇行を続け、結局自殺の虞れありとして鎌倉警察署に保護された後帰宅したが、このことから菊井中学校を退職して同月二十四日北林病院に入院し、治療を受けるうち一応症状が消失したため同年七月退院し、その後自宅で手内職をやつたりしていて昭和三十二年四月名古屋市内梅村学園、中京商業高等学校に勤務するようになつたが、昭和三十三年三月二十日自ら申し出て同校を退職し、前記の如き犯行に至つたものである事実が認められ、又、被告人の精神分裂症の症状は主として強固な妄想であつて昭和二十七年五月頃の発病以来増悪と軽快とを反復して完治することなく現在に至り、平常意識は清明であり、知能、知覚、運動等に異常はないにも拘らずその思考には著しい異常内容を有し、誇大妄想、関係妄想、被害妄想等に影響され、その内容は「宇宙の人間関係を支配している神は電磁波の発信と受信との関係であり、自分はその電磁波を発信する特殊発信機構を備えており、他の人間はすべて受信機構を備えているものであつて神は自分の頭の中に在る。自分が存在しなくなる事は人類の滅亡を意味する。電磁波を発することの報酬を受ける手段としては個人から奪うのは悪いから銀行から奪えばよい。たとえ自分に対して死刑の判決が下つたとしても、その執行は不可能である。」というものであり、この妄想性思考は被告人の全人格に浸透して固着し、被告人は完熟した重篤なる妄想型精神分裂病に罹患しているものであつてその妄想に関係する場合においては全く正常な認識判断の能力及び制御能力を有せず、本件犯行も右に関する病的動機があり、既に梅村学園在職当時から銀行強盗を思いたつていたものであるが、梅村学園を退職するや家族に無断で家をとび出して上京し紹介者もないのに直接履歴書を持つて大阪商船株式会社と日本郵船株式会社を訪れて就職方を申し込み、拒絶されるや、無計画に仙台にまで行き、更に東京に戻つて銀行強盗の道具として拳銃を巡査から奪うための目的で野球用バツトを購入し鎌倉に至り、同市内を歩きまわり、偶然目についた巡査派出所が繁華な場所にありしかも近所の店も開店中であつたのに右派出所をえらんで入り中に居た巡査が拳銃を身に携帯していない事を発見したのにこれに襲いかかる等非常識な行動を続けたものであり、本件犯行が前記妄想に基いて行われたものと認められる。

従つて被告人は本件犯行に際し右精神障碍によりその是非善悪を弁別する能力及びその弁識に従つて行動する能力を全く欠如していたもので、結局被告人は本件犯行当時心神喪失の状態にあつたものと認むべきであるから刑法第三十九条第一項、刑事訴訟法第三百三十六条前段に則り無罪を言渡すべきものとする。

よつて主文のように判決する。

(裁判官 松本勝夫 三宅東一 渡辺惺)

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